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カチンの森ノート①

ヴィクトル・ザラフスキーの書いた「カチンの森~ポーランド指導階級の抹殺~」(みすず書房、2010/07/09)。
図書館でかりてきて読みました。酷いの一語に尽きます。
その読書ノートを綴ります。
日本共産党綱領は「ソ連社会は社会主義ではなかった」と断じていますが、これを読めば当然のことと思います。
しかし、なぜ曲がりなりにも科学的社会主義をかかげていたソ連共産党が、かくも非道な殺人者の政党の転化したのか、その原因を明らかにして教訓にしないと、日本共産党も国民の支持を得にくいのではないでしょうか。
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Ⅰ、ポーランドの分割とポーランド市民のソ連収容所拘禁

1940年4月、5月に、約25000人以上のポーランド将校、知識人などがソ連の内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された。

この事件は遺体が発見された地名にちなんで「カチンの虐殺」と呼ばれた。

はじまりは1939年8月23日、ヒトラードイツとスターリンのソ連が手を結んだ独ソ不可侵条約とモロトフ・リッペンドロップによる秘密議定書にある。

秘密議定書はポーランドをドイツとソ連とで分割することが取り決められていた。

9月1日、ナチスドイツはポーランドへの侵略を開始した。9月3日、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。第二次世界大戦が始まった。

ナチスドイツはソ連に対して秘密議定書の取り決めにそって、東部ポーランドを直ちに占領するように求めた。

だがソ連は攻撃を二週間遅らせた。コミンテルンの方針を転換させる必要があった。

西欧の共産党は、ナチドイツのポーランド侵略に対してナチへの抵抗を組織した。フランス共産党は政府の戦時予算に賛成した。ベルギーの共産主義者は侵略者とたたかうポーランドを支持することを表明し、アメリカ共産党はドイツの侵略に対して民主主義国はポーランドを全面支援するよう訴えた。

9月5日、コミンテルンのディミトロフはモスクワに対して新路線を規定するように要請した。

9月7日、スターリンはモロトフを同席させてディミトロフを引見し、次のように戦争を規定した。

こんどの戦争は資本主義国の二つのブロック間で、世界の再分割をめぐってはじめられたものであり、ファシズムと民主主義とに資本主義国を分ける意味は失った。ソビエト政府は二つのブロックの戦争を操作し、両方が殴り合ってへたばることは我々にとって悪くない。ポーランドはファシスト国家であり、それが滅びることはいいことだ。そこにソビエト制度を拡大して何が悪い?コミンテルンはこの方針に合わせるべきだ――。

9月8日、ディミトロフは指令を発して、「ファシスト・ポーランドを国際労働者階級は絶対に擁護してはならない」とした。すべての共産党がそれに従った。フィンランド共産党の指導者、トゥオミネンがソ連のフィンランド侵攻に降伏したあとにコミンテルン指導部に出した公開状を唯一の例外として。

9月17日、ソ連軍は東部ポーランドに侵攻した。宣戦布告はしなかった。ドイツ軍の侵攻からポーランド国内のウクライナ人、ベロルシア人を守るためにとった行動に見せかけた。

ドイツ軍と戦っていたポーランド軍は背後をおそわれた。ほとんど抵抗できずに降伏した。

9月21日、ソ連のヴォロシーロフ将軍は、ソ連軍に対してドイツ軍からポーランド軍撃滅の要請があれば、協力することを命じた。12日の戦闘でドイツと約束していた境界線まで達したソ連軍は進撃を停止した。ポーランドは地図から消滅した。

分割によってソ連はポーランド領の52%、国民の三分の2を獲得した。
その中には約25万人の「宣戦布告なしの捕虜」も含まれていた。
ソ連側の宣伝文句である「ウクライナ人、ベロルシア人との自発的再統合」との整合をはかるために、それらの民族の大部分の将兵たちは解放されたが、そのほかの将兵はドイツがとらえている「ポーランドのソ連部分」の捕虜との交換のために分けて抑留された。
彼らは階級や職業によって区分されて収容所に入れられ。
10月8日、内務人民委員部(NKVD)の責任者のベリヤは、それらの「捕虜」あいだにスパイを放つ指令を出した。

1939年のおわりまでにソ連占領地域のポーランド将校は根こそぎ逮捕された。
彼らの大半は予備役で、元の職業は新聞記者、大学教授、医師、弁護士、技師、芸術家などいわゆる知識階級だった。

1939年10月末から11月初旬にかけて、ドイツ・ソ連領国はポーランド人捕虜の交換を行った。ドイツ支配区域の捕虜4万3千人がドイツに、ソ連支配区域の捕虜1万4千人がソ連に引き渡された。この交換は両国のあいだの特別な「分業」といってもいいできごとだった。ソ連に引き渡された捕虜は直ちに収容所に入れられた。
捕虜交換に対してナチによる迫害を恐れたユダヤ人と共産党員からの再三の訴えを、スターリン指導部は一蹴した。彼らはドイツに引き渡された。
さらに40年2月、スターリンの粛正によってソ連の収容所に入れられていたドイツ共産党員をはじめとした政治亡命者はゲシュタポに引き渡された。

ソ連の収容所のなかでは内務人民委員部(NKVD)の取調官は、次々と犯罪者リストをつくりあげた。彼らは「コミンテルンにたいする武装闘争」の罪を着せられた。
ポーランド人捕虜たちは自分たちを戦争捕虜として認めるように求めたが、スターリン指導部はそれを黙殺した。収容所ではソ連側の「洗脳」教育が繰り返された。
1940年1月終わり、内務人民委員部(NKVD)はすべての「捕虜」の罪状リストを仕上げた。取調べ官たちは、これまでのソ連国内での経験から類推して「捕虜」たちはシベリア送り8年から10年と思った(それは記録で確認される)。
→つづく
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