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ソ連はなぜ軌道を外れたか?

地区党学校の話を続けます。
綱領の講義のなかで、
ソ連はなぜ、社会主義をめざす軌道から外れ、
それと正反対の存在となって崩壊したのか、
について自分なりの研究もふまえて
お話をしています。
というのも、
単純に「指導部の誤り」と片付けることはできない
社会的、人間的問題を内包しており、
「他山の石」とするべきものが
自分としても多々あると思うからです。

以下、レジュメを紹介しておきます。

①ロシア革命の放った「光」
1917年10月のロシア革命は、
「平和への布告」、「土地についての布告」、
8時間労働制など、社会主義をめざす革命として、
世界に大きな影響を与えた。

②内戦と干渉戦争
最初の政府は
ボリシェビキ(共産党)と社会革命党左派の連立政権で、
ソビエト、憲法制定議会も複数政党制だった。
ドイツとのブレスト・リトフスク条約(18年3月)によって、
それに反対する内戦が
英仏日米の干渉国と連携して勃発。
その過程で反対政党が禁止され固定化された。

内戦と干渉は22年まで続き、双方のテロは辛酸を極めた。
政府は「戦時共産主義」政策を実行して、
農村から強制的な食糧徴発を行ない、
多くの飢餓による犠牲者も生まれた。
「平和への布告」によって
ロシアから独立した国々は、
はじめは干渉軍と反乱軍の拠点になったが、
次第にロシア政府側につき、
干渉軍と反乱軍を追放した。

③新経済政策(ネップ)
内戦に勝利する見通しが生まれた1921年に、
ロシア政府は第一次世界大戦と内戦で疲弊した経済を立て直すために、
「市場経済を通じて社会主義をめざす」新経済政策(ネップ)を採用した。
これによって経済は活力を取戻した。
しかし、この探求は後にのべる事情で旧ソ連には定着しなかった。

④レーニンの死と分派形成
レーニンは18年8月の暗殺未遂によって
2発の銃弾を受けたこと、
多忙な政務のストレスなどによって急速に健康を害した。
22年5月に一回目の発作を起こし、
12月の二回目の発作からは政権から遠ざけられた。

このころ、スターリンの大国主義と粗暴な性格を見抜いたレーニンは
書記長の座から更迭する「遺書」を口実した。
死んでから開封することを命ぜられていたにもかかわらず、
レーニンの秘書を通じてスターリンに筒抜けになった。
23年3月に三度目の発作を起こしたレーニンは、
24年1月に死ぬまで廃人同様になった。

レーニンが死んだ後から、
政治局にはトロツキーを排除した
「七人組」と称する分派が形成された(1924年8月)。

正規の会議の前に「七人組」の政治局員は
連絡を取り合ってトロツキーの発言や活動を封じた。

民主集中制と規約の破壊である。
のちに「七人組」は分裂したが、
多数派分派を形成した
人たちにとっては、
「規約」と「民主集中制」は
相手を攻撃するために都合のいい
口実に過ぎなくなった。

⑤軌道を踏み外した農業集団化
スターリンは指導権争いのなかで
巧妙に立ち回り主導権を得ていった。
西側に革命を輸出するために、
急速な工業化や農業集団化を主張する
トロツキーに対してはブハーリンと結び、
トロツキー派を打倒すると
トロツキーの主張を取り入れて
急速な工業化や農業集団化を主張してブハーリンを攻撃した。

1930年からスターリンは、
新経済政策を放棄して「スターリン革命」と呼ばれる
強制的な農業集団化に踏み出した。
農民の抵抗は高まり、国内の緊張は高まった。
スターリンは「戦時共産主義」のときにとった弾圧政策を復活させ、
反対派を抑圧・弾圧した。

一党独裁によって、
ソ連社会にあった利害は政党間の異論として現われず、
党内部の異論として反映された。
しかし、国家機構での異論と政党内部での異論の取り扱いは性質が違い、
異論は「民主集中制」によって排除・弾圧された。

⑥大量粛清と強制労働
34年12月の政治局員・キーロフ暗殺を契機に、
スターリンは反対派を処刑する大量粛清に踏み切った。
社会主義建設が進むにつれて反対派は凶暴になり、
暴力に訴えるという「階級闘争激化のテーゼ」が唱えられた。

密告が奨励され、
秘密警察の拷問によって「自白」させられた人びとは
簡単な「裁判」によって処刑された。
処刑を免れた人びとは
運河やダム建設、道路建設などの強制労働に従事させられた。
最も新しい資料によると、
大量粛清が最も激しかった37~38年に68万余人が銃殺され、
39年1月1日段階で202万余人が
囚人として強制労働に従事させられていた。

⑦覇権主義
国内での抑圧・弾圧政策と対外政策の変質は表裏一体だった。
すでにソ連結成の段階で、
少数民族の抑圧に踏み出していたが、
39年にドイツとのあいだで不可侵条約を結び、
ポーランド分割とバルト三国の併合を行い、
帝国主義顔負けの覇権主義政策に乗り出した。

スターリンはヤルタ会談で対日参戦の条件に
千島割譲を米英に約束させ、
演説で日露戦争のあだ討ちと位置づけ、
北海道半分の占領もめざしたが、
トルーマン米大統領に拒否された。

スターリン死後もソ連は、
ハンガリー事件、チェコスロバキア侵攻、
アフガニスタン侵略などをくりかえした。

⑧日本共産党の「ソ連社会論」
しかし、日本共産党は以上の認識を
はじめからもっていたわけではない。
ソ連共産党から干渉を受け、
それとたたかうなかで「社会主義とはちがう」との認識をもち、
「社会主義生成期論」(1977)などを経て、
ソ連崩壊後に明らかになった事実にもとづいて、
「(旧ソ連は)社会主義社会でないことはもちろん、
それへの移行の過程にある過渡期の社会などでもありえない」(1994年)
という認識に到達した。
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